自分を「感じる」ということ
「今、どういう風に感じましたか?」という質問に、「これって、こういうことですよね?」「〜ていうものなんじゃないですか?」「こういう人がいますけど、私は違うと思うんですよね」「ありきたりかもしれませんが・・・」「正しいかどうかわからないけど」
等々、こういった応対をする方がいます。もちろん、その方の考えなので間違ってはいないんですが、「あなた」はどう感じたのか、という問いにそのまま応えられない人(もしくはそういう時)は結構いらっしゃいます。回りへの批評や、知識からの考え、得体の知れない世間の意見と比べて自分はどうか。それが無意識に気になって仕方がないのです。
例えば、ある音楽を聞いて、その音楽に対してどう感じたか聞くと、「音楽って好きな音楽や嫌いな音楽が流れる、そういうものですよね」
「なるほどそうですね。そして、あなた自身は何を感じたか教えて下さい」とまた尋ねると、
「まわりの人がシーンとして聞いていたからちょっと怖〜い」
「回りが怖かったですか。なるほど。ところで、人の事ではなくて、あなたは音楽自体に対して何を感じましたか?」とさらに聞いていくと、
「・・・何も感じませんでした。」
「何も感じなかった、わかりました。ありがとう。」といった具合です。
何も感じなかったというのが、言えなかったのでしょう。そして、おそらく流れた音楽そのものに集中して聞くというより、回りがどうか、その音楽をどこに当てはめるかという論評を「考えて」いて、自分自身の心が、本当はどう感じているか、が置き去りになってしまっているのでしょう。何かしら感じたはずですが、自分に対して自分に耳を傾けていません。また、何も感じなかったなら、それでまったく問題ないですが、素直にそれを伝える事自体、回りの「考え」が気になる。
私達はこうやって、自分の心が感じている事を無視して、回りがどうか、どこに当てはめられるか、を相対的に知識や経験から「考え」て、安心を得ようとしています。
でもそれが高じると、心が傷ついていたり、悲しんでいたり、怒っていたり、癒されていたり、楽しんでいたり、優しい気持ちになっていたり、自分が本当に「感じて」いる事を分からずに過ぎてしまいます。そうすると、本当は自分のプライドの高さからとても傷ついているのに、気付いてあげない結果、どうしてこんなにイライラして、ハッピーじゃないのかわからなくなる。素直に自分の感じた事に気付けば、気持ちが少しでも癒された事に気付かず、クサクサしたままになる。だから相手に感謝の気持ちももてない。優しい気持ちになっているのに、伝わっていない事で、自分の優しさに自信がなくなる。(まあ、これらは私自身の体験からです(笑))
「考え」というのは、前にも触れましたが(人生の変革期)、政治や習慣が変われば、簡単に変わります。わかりやすい例は戦後の日本もそうでした。
だから、常に自分がどう「感じて」いるか、をわかってあげましょう。自分しか、それはわかりません。
そして、わかった上で回りとの調和を考えて行動に工夫をしたり、自分がどうして、怒りがわいてきたのか、悲しくなったのか、自分を探ってみましょう。何かしら起因はあります(そういう気持ちになった原因そのものでなく、どうしてそういう対象にそういう気持ちになるか)。例えば怒ったから怒る、のでは、いつまでもアンハッピー。怒る気持ちを自分で理解して、どうしてこういう事に怒るのか自分を探ってみてください。傷ついた気持ちになったのか、恥ずかしかったのか、など。
そうやって自分の気持ちをわかってあげると、人の気持ちも感じられるはずです。よく、言われている言葉に「自分を愛せば人も自分を愛してくれる」。これは自分をわかってあげる努力をする、つまり、愛せば人の気持ちを汲んであげられるようになる、すると人からも愛される、とまあこんな流れでしょうか。
わかっているようで、感情(考え)だけが先走ってしまって、自分の心がわからないままの事は沢山あります。せめて自分の気持ちだけでも、わかってあげましょうね。
きっと、その先には、お互いにハッピーになれる事が待っていますよo(^-^)o
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